WWⅡ期日本の遺産「泰緬鉄道」を学ぶ〈@กาญจนบุรี / カンチャナブリー〉
19/09/’18 (WED)
สวัสดีครับ (sawatdii khrap) !!
wennyです
タイ滞在三日目ということで、少し足を伸ばして กาญจนบุรี (kaanchanaburi/カンチャナブリー) に行ってきました。
この街は第二次世界大戦時に日本がタイービルマ間を結ぶ鉄道「泰緬鉄道」を建設する際に拠点とした街です。
この街及びこの街にある「クウェー川鉄橋」は、アカデミー賞受賞映画「The Bridge on the River Kwai (邦題:戦場にかける橋)」の舞台として知られているそうです。
10:30 バンコク郊外の南バスターミナル(southern bus terminal / สายใต้ใหม่ / sai tai mai)から 81番 กาญจนบุรี (カンチャナブリー) 行きの高速バスに乗りました。
値段は110 บาท(baat) でした。
ちなみにバスでは旅疲れからかほとんど寝てしまっていました。
景色楽しめって感じだし警戒感もなさすぎか!!
ともあれ無事にカンチャナブリーに到着したのは13:00前。
約2時間半のバス移動でした。
その後、ここではレンタサイクルを利用できるとの情報を仕入れていたのでレンタサイクルへ。
ถนน เเม่น้ำเเคว (Maenamkwai Road) 沿いのレンタサイクルにて 50บาท /day で自転車を借りてクウェー川鉄橋(สะผานข้ามเเม่น้ำเเคว)に向かいます。
ちなみに今回レンタサイクルを利用する際、デポジットとしてIDカード(?)を要求されたのですがよくわからず、代わりにパスポートをデポジットとして渡すことに。
パスポートを渡すというのは少し抵抗がありましたが、最終的にはきちんと返ってきたので大丈夫でした。
「IDカード」がなんなのかご存知の方がいたら教えてください。
さてMaenamkwei Rd.を鉄橋方面に進んでいくと石碑が左手に見えます。
これは泰緬鉄道建設に際し亡くなったアジアの人々や連合軍捕虜の慰霊碑で、昭和19年に日本軍鐵道隊によって建てられました。
ここにはDonation Boxがあり、ノートに名前を書いて管理人の方から線香をいただくこともできます。
ちなみに管理人さんはこれまでタイで出会ったタイの方の中で一番日本語が達者だった気がします笑
ここで線香を上げてさらに少し行き、14:00前にクウェー川鉄橋に着きました。
ここは現在でも1日上下合計6本列車が通るスポットとなっています。
ただし列車の時間は割と早く、しかも本数もないので注意してください。
私は時間を逃して今回乗ることはできませんでした・・・
代わりに外から通っているのを撮影
ゆーーーーーーっくりと橋の上を列車が通って行きます。
その後川沿いのレストランで食事
カレーのスープを注文したのですが、米など頼まなかったので辛すぎて涙が出るわ耳まで痛くなる始末…
15:00頃、食事を終えて「泰緬鉄道博物館(死の鉄道博物館)」へ
この博物館は鉄道のカンチャナブリー駅の近くにあり、隣には「連合軍共同墓地」もあります。
ここでは泰緬鉄道がどのように作られたのかを知ることができます。
(中の展示はタイ語だけでなく英語でも書かれているので、タイ文字が読めなくても英語さえ読めれば泰緬鉄道について学ぶことができますよ。)
日本が東南アジアに進撃し、イギリスが撤退するに当たり、イギリスは鉄道網などを破壊してから撤退していきました。
そのためその後東南アジアを占領した日本は鉄道の修復または新設の必要に迫られます。
(なお当時のタイは日本軍の強い影響下にあったそうですが、一応日本の「同盟国」として独立を保っていました)
そこで日本は鉄道の新設に乗り出しました。
これにより泰緬鉄道建設計画がスタートします。
技術的な困難はそこまで大きくなかったのに対し、この計画には非常に大きな課題が課せられていました。
それは時間の制約です。
この課題をクリアするため日本軍は東南アジアの人々や連合軍捕虜(イギリス・オランダ・オーストラリアなど)を徴用、劣悪な環境で使役しました。
マレー半島経由で連合軍捕虜を小さなワゴンに押し込んで
(下の写真のワゴンに20人以上詰め込んだまま、休憩も食事も十分に与えられず輸送されたそう)
上の写真は捕虜として連れてこられたオランダ人のスケッチ、記述をもとに作られたブロンズ像
マラリアにかかった2人がコレラで動けなくなった中央の男を連れて行くシーンを描写しています
写真ではあまり伝わらないかもしれませんが、これを見たときは胸が締め付けられました
下の写真は各地域別の死亡者数を杭の数と板の長さで表したもの
左からマレー人・タミル人、ビルマ人、ジャワ人となっており、東南アジアの現地民が多く徴用され亡くなったことを視覚的、直感的に知ることができます。
また、東南アジアの人々だけでなく、欧米人も少なからず、というかたくさん亡くなっているのもわかります。
(左よりマレー&タミル、ビルマ、ジャワ、イギリス、オーストラリア、アメリカ、オランダ、Aminese、中国、日本(朝鮮含))
建設の際に使われた実際の道具
このようなある意味原始的な道具で鉄道建設という大工事を行ったと考えると、その壮絶さを少しは想像できる気がします。
あまりにもショッキングすぎたので写真は取れませんでしたが、やせ細ったり病気を患った人の写真や、怪我・病気の治療を受けている様子を描いた人形の展示してあるブースなどもありました。
この時ここで私が受けたショック・衝撃は広島平和記念資料館を訪れた時のそれに匹敵するものでした。
第二次世界大戦時、日本軍が遠くタイでどんなことをしていたのか、今まであまり聞いてこなかっただけに、ショックは大きく、胸を締め付けられました。
日本にいると、広島、長崎、沖縄、空襲などから戦争を知る機会は多くありますが、それはややもすると戦争による被害を「受けた」立場からのみになりがちです。
遠く異国での出来事より、今自分のいる近くで起きていたことを学ぶことになるのは当然の流れであり、仕方のないことです。
しかし、できるものならばこうした日本が遠く離れた地で何をしたのか、特にそれが戦争で被害を「与えた」場合はなおさら、知っておくべきなのではないでしょうか。
とはいえ被害を「受けた」側はその出来事を次の世代に語り継ぐかもしれないのに対し、被害を「与えた」側からはどうしても語り継がれづらい。
したがって、自ら被害を「与えた」側が被害をもたらした、被害を「受けた」側の地域に出向くことが重要になってくるのだと思います。
もちろんこれは日本だけのことではないと思っています。
戦争に参加したどの国も多かれ少なかれ被害を「受け」つつ「与え」ていたはずです。
しかし私は日本人としてのアイデンティティを持っているため、今回タイで日本軍の残した「負の遺産」を訪れてこのように思ったのです。
泰緬鉄道や東南アジアでなくてもよいですが、是非皆さんも自国の戦争の「加害者」としての側面にも目を配ってみてください。
そして可能ならそこを訪れ、想いを馳せて見てください。
きっと視野というか価値観というか、何かが広がると思います。
また、今後東南アジアの人々と関わっていく上でも、こうした事実を知っておくことは重要でしょう。
ちなみに博物館を見学した後私は連合軍共同墓地にも行って、博物館で購入した花を供えてきました。
この場所もまた、亡くなった方一人ひとりの名前や享年などが全てわかるため、リアリティを持って泰緬鉄道建設の中で多くの方が亡くなった事実を思い知ることができたと思います。
今回は以上です。
それではบ๊ายบาย (bye-bye) !!